【エッセイ】死んだじいちゃんの冗談

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以前Noteに書いたじいちゃんの話。

夏が近付くと、いつもじいちゃんのことを思い出す。

父方のじいちゃんは、ときどき私に質(たち)の悪い冗談を言ってきた。

私が5歳くらいの時の車の中。シートベルトを付け忘れたじいちゃんに、私が「じいちゃん、またシートベルト忘れとるよ」と言うと、「みっちゃんな、65歳以上はシートベルトせんでええんや」と、真顔で言ってきた。

6歳の時のお正月。「みっちゃんな、今年のお年玉はすごいで。お金持ちの仲間入りや」と言いながら、はちきれそうなポチ袋をくれた。 聖徳太子がプリントされた、よれよれの一億円ハンカチだった。

中学生の頃。テレビで東京の「町田」という地名が出てきた時には、静かに「ああ町田な、じいちゃん昔あそこ住んどった」と言ってきた。「へえー、そうなんや」と普通に信じてたら、横からばあちゃんが「おじいちゃん、嘘ばっかつかんの!」とツッコミを入れた。(「なんでそんな意味のない嘘を……」と今でも思う。)

普段は寡黙なのに、ときどきとんでもない冗談を挟んでくるじいちゃんが大好きだった。

だからこそ私は、じいちゃんがタバコを吸い続けるのが嫌だった。

「じいちゃん、タバコは身体に悪いで」と言うと、「みっちゃんな、じいちゃんはお医者さんにタバコ吸えって言われとるんや」と言ってくるんだから本当に質が悪い。

”可愛い”孫娘として、何とか説得を試みたものの、タバコだけは辞めなかった。

結局タバコが影響しているのかしていないのかは分からないけれど、私が高校生になった辺りから、じいちゃんの身体が目に見えて弱ってきた。

私がじいちゃんの家に行くのは、多くて半年に1回。

和式だったトイレは、いつの間にか洋式にリフォームされていた。

じいちゃんが身体を起こしてテレビを見る時間が減ってきた。

医者嫌いらしく、本当に必要な時以外全然医者に行かない。 (もちろんタバコを吸えと言った医者は、じいちゃんの空想の産物だ)

会いに行く度に少しずつ小さくなっていくじいちゃんを見るのは辛かったけど、当のじいちゃんは寡黙ながら常に気丈に振る舞っていた。

私が大学生になると、じいちゃんの家に行く機会もいよいよなくなってきた。薄情な私は、じいちゃんに元気でいてほしいとは頭の片隅では思いつつも、授業にサークルにバイトに恋愛に、自分の人生を生きるので一杯一杯の日々だった。

じいちゃんもじいちゃんで、強がりだから弱いところを見せたくないからなのか、気を張ると疲れるからなのか、私や両親を呼ぶことはしなかった。

22歳の時、私は自分の中では大きめの失恋をした。それまでも色んな挫折を経験してきたつもりだったから、すぐに乗り越えられると思っていたのだけど、その時ばかりは何をしても上手く行かなかった。

日に日に感情が虚ろになって、痩せこけ落ち込んで行くものだから、両親にもかなりの心配を掛けてしまったようだ。

あまりにも埒が明かないので、私は1週間授業も何もかもサボって遠くに出かけようと企んだ。そう、世に言う「傷心旅行」というやつで非現実を楽しんで来ようと。

行き先は友人がいるオーストラリアのバイロンベイ。シドニー近くにある、現地では割と知られた観光地だ。

オーストラリアに行くのは初めてだったが、計画はスムーズに進んだ。予定通りに飛行機も出たし、無事シドニーの空港に到着。

携帯の電源を入れ、友人に連絡を取ろうとした瞬間、日本からのショートメッセージが届いた。

父からだった。

「みつは、じいちゃんが死んだ。帰ってくるかどうかは任せる。」

非現実を堪能するはずだった日。

確かにその日は、これまでの人生で一番非現実的な日だった。

動揺、悲しみ、後悔、不安、色んな感情が怒涛のように押し寄せる一方で、目の前の美しい景色。どこかまだ現実として受け入れられていないような、夢を見ているかのような気分になる。

さすがに旅行を楽しめる状態ではなかったので、結局翌日のフライトを急遽取って帰国することに。1日だけ友人と会って一緒に過ごすことにした。

友人は、私がバックパッカーをしていた頃に仲良くなったオーストラリア人。事情を聞いていた彼女は、私と出会った瞬間にとても長いハグをしてくれた。彼女のお陰で、ダウンタウンを散歩したり、お互いの近況について他愛もない話をしたり、穏やかな時間を過ごすことができた。

その日の夜、友人は2枚の大きな布と懐中電灯を持ってきて出かけようと言ってきた。

言われるがままに真っ暗な道を懐中電灯と一緒に進んでいくと、辿り着いたのは誰もいない海岸。

「ここでしばらく寝っ転がってようか。ここは私にとって、世界で一番癒される場所だよ。」そう言って友人は布を広げた。

寝転がって目に入るのは、満点の星空。 聞こえるのは波の音だけ。 布越しに感じる柔らかい砂。

その美しさを、私はこれからも忘れることはないと思う。

ぼーっと星空を眺めながら、私はゆっくりとじいちゃんのことを考え始めた。

まったく、じいちゃんは質が悪い。

なんで危ないって、今まで教えてくれなかったの。

なんでよりによって、私が落ち込んでる時なの。

なんでよりによって、私がオーストラリア着いた瞬間なの。

冗談でしょ。本当、今までの冗談の中で一番質が悪い。

あまりにも実感が沸かなくて、「なんか、ドラマみたいだな」なんて思うとなんだか可笑しい気さえもする。

ぼーっと波の音を聞いて、星空を眺めて。そうしたまま、30分くらい経っただろうか。

ゆっくりと自分が気を張り続けていたことに気が付く。

そうか、じいちゃん、もうおらんのやね。

何だかよく分からないままだけど、ふと身体が思い出したかのように、感情が膨れ上がるようにして、どっと疲れと涙が溢れ出てきた。

帰国してからは何だか忙しくて、あまり細かくは覚えていない。

パスポートを持ってスーツケースをガラガラ引いてきた私に、父は「お疲れ。じいちゃんは本当構ってちゃんやなあ」なんて笑って言ってきた。そうは言いつつ、お葬式前日の夜はじいちゃんの棺に無言でずっと寄り添っていた。

私たち家族はしばらくじいちゃんのことを一杯考えた。懐かしい話を出し、涙を流して、一杯笑った。

これまで知らなかったじいちゃんの話も色々聞いた。

広島に住んでいたじいちゃんが、本当に偶然、原爆の日だけ広島市内からいなかったこと。

じいちゃんは、実は人生の大半の時間を「冗談ひとつ言わない超ド真面目人間」として過ごしていたこと。父にとってじいちゃんは怖い存在でしかなかったこと。

私たち孫が生まれてから、いきなり人が変わったようにしょうもない冗談を吐き始めたこと。

「ああ、私はじいちゃんの、”じいちゃん”としての側面しか知らなかったんだな」なんて思っていた。

数日後、私は大学に戻った。

この1週間以内が慌ただしすぎて、私はいつもより疲れていた。

一方で、私はある変化に気付かされていた。

オーストラリアで寝そべっていた間、慌ただしかった間、じいちゃんのことを考えていた間、私は完全に失恋の痛みを忘れていたのだ。

そこからは少しずつ元通り食べれるようになり、笑えるようになり、完全に元通りの生活が送れるようになるまでに時間はさほどかからなかった。

今年、じいちゃんが亡くなってから7年になる。

私は今週、数年ぶりにお盆休みをもらって、久しぶりにじいちゃんのお墓に向かう。

もしじいちゃんが本当に今も見守ってくれているなら、声が聞こえるなら、じいちゃんは何て言うんだろう。

「あの時、みっちゃんが落ち込んでるのが見てられんくてな。じいちゃんわざとタイミングを合わせてやったんや」とでも、ありもしない手柄を主張するのだろうか。

いやじいちゃん、オーストラリアへの旅費けっこう高かったんやからね。

本当にじいちゃんは質が悪い。

何度もじいちゃんの冗談を真に受けたし、しばらく騙されていたものもあった。

でも、じいちゃんの質の悪い冗談のおかげで一杯笑ったから、これからもずっと覚えておきたいと思う。

今でもじいちゃんの冗談の話をするとばあちゃんが笑うから、これからも何度も話していこうと思う。

でもじいちゃん、次生まれ変わってきた時には、タバコはやめてよね。

日々の学びや気付きをつぶやいています